寂しくて眠れない時の考え方




「寂しい」

 

初めて女子の「寂しい」という感情、訴えを聞いた時の、まるで靄の中を朧げなオアシスの残像を目指して進むような感触はなんとも言えない無力感を僕に与えました。

 

果たしてどうしてあげればいいんだろう。

あるいはどうにもしないであげたほうがいいんだろうか。

 

こんな思考のループに陥ってディスコミュニケーションの末、分かり合えない事は男と女の岸に横たわる永遠の海溝ですね。

それでも僕はやはり男なので原因と対処、結果と反省のサイクルでしか物事を考えられないわけです。

そういうわけで女子の寂しさについて考えてみました。

まずどのような状態が寂しいのか

人間の基本単位は一人なわけです。

最初に産まれてくる時はどんな状態だろうと一人として作られるわけです。

そこに限りなく二人に近い状態で母親や、兄弟が存在したりします。

まずこの状態にない場合はとても寂しいですよね。自分を損得や理由なく近しく思ってくれる人が誰一人いないわけですから。

産まれてくる時は独り。

 

では死ぬ時はどうでしょう?

 

家族に見守られて息をひきとることもできるかもしれない。

歪んだ形だけれども心中という形で誰かと死を選ぶこともできるかもしれない。

ただその個々人に一つずつ与えられる「死」を受け入れるのはやはり個々の「一人」なわけで死ぬ時も独りです。

独りで生まれてきて独りで死ぬわけです。考えるだけでとても寂しいですよね。

独りが寂しいというのはわかりやすいですが、独りとはどういう状態なのかといえば人間にとっての最も当たり前な状態を人は寂しいと感じてしまうのではないでしょうか。

なぜ当たり前であるはずの状態が寂しいのか

寂しいのは人間にとって当たり前のことなんだからメソメソするな。

こんな事を言いたいのではありません。

問題は


「当たり前の状態であるはずなのになぜ寂しさを感じてしまうのか」

 

です。

そしてここに寂しさを理解するポイントがあります。

独りで産まれてくる生と、独りで死んでいく死の間にある期間を人生と呼んでいます。

そして人生には何の意味もありません。

このあたりは宗教観なども関わってくるので異論はあるかと思いますが、逆に意味を持って生まれてくることの方がゆかんでるんじゃないかと僕なんかは考えます。

だって何かをするために生み出されるもの、それってつまり「製品」じゃないですか。


人生に意味を持って生まれてくるということはその意味を達成できない人生を、さも「不良品」扱いしているようでいてどうもしっくりこないのです。

人生に決められた、与えられた意味なんてない方が健全だと思います。

意味のなく生まれてくる人生こそ健全である、健全ではあるけれどもそこはやはり空っぽなので言い換えれば無駄でもあるわけです。

それならその何の意味もない生と死の間にある時間、こんなもの合理的に処理してしまえばいいじゃないですか。

意味なんてないんだもの。

 

どうです?

「寂しく」ないですか?

 

人生の当たり前を突き詰めて、「死」までのプロセスを単純に合理的に考えてしまうととても「寂しい」ことになるわけです。

寂しい状態というのは、毎日同じことの繰り返しで、何の意味も感じられず、死までのベルトコンベアーに乗せられていることが、意識的にしろ、無意識的にしろ感じられてしまった時にやってくるのではないでしょうか。

合理的な毎日というのはとても便利で、洗練されたようなもののように感じられるけれども、死までの最短コースを研ぎ澄ませているようなものでもあるわけです。

寂しさを越えるために

じゃあどうしたら寂しくならずに済むのか。

これがやはり知りたいですよね。

でもここまで素人の駄文を咀嚼してくれた辛抱強いあなたならもうおわかりかもしれませんね。

ポイントは「意味」なんじゃないでしょうか。

独りで始まり、今感じているこの時間の流れに何の意味もない。

しかしその何の意味もない時間の終わりでさえまた独りである事実に変わりはなく、それを見越してしまうとまた寂しさが襲ってくる。

その事実を変えることはできないけれど、見えにくくすることはできます。

 

それが「生きる意味」を自ら設定することです。

 

生きる意味が誰からも与えられるものでもなく、全て偽物だと決まっているのだから自分にとってより心地の良い意味を決めてしまえばいいんです。

夢がある人が寂しさを感じることがないのは死ぬまで期間をいかに遠回りして長く過ごそうかばかり考えているからです。

愛しい人と一緒にいることで寂しさを感じることがないのは、必ず独りになる時までにありとあらゆる手を尽くしてその人の全てを見てやろうと無駄なことばっかりやって忙しいからです。

 

「私はこれを極めるために生まれてきた」

「私はこの人といるために生まれてきた」

 

そうやって勝手に設定して勘違いして生きていれば寂しくはなりません。

だって絶対的な寂しさを運んでくる死を遥か彼方に置いておくのに必死なんですから。

意味のある人生に最も邪魔な存在は死です。

意味のない人生は死んでいるのと変わらない。

そして絶対的な寂しさを持っているものは生まれた後は死だけ。

もし家族、友人、恋人もいて、かつて描いた夢の仕事にもついているのに寂しさを感じてしまうのだったら、

それは自分自身に嘘をついていて本当は人生に「意味を感じていない」からではないでしょうか。

 

自分の設定した意味が時に陳腐で、今にでも捨ててしまっても構わないように思えることもあります。

だけどそれにはこう考えます。

最初にその意味を設定した自分はきっと今気まぐれに人生の意味を捨て去ろうとしている自分よりもよく考えていて、賢かったはずだから彼(過去の自分)との約束を守る。

 

まぁこれは程度問題であまり続くようなら新しい意味を設定してもいいと思いますけど。

首尾一貫して苦役に耐え続けている男がカッコいいのは昔の自分との約束を守ろうとしているからかもしれないですね。

あとがき

とっても長くなりましたが、日々、わけのわからない寂しさに悩んでいる方のヒントに少しは近づけたでしょうか?

新しい出会いによって人生の意味が変わってくるというのも事実として存在します。

もちろんその意味を感じさせてくれるぐらいのいい相手であることが条件ですが。

ハードルは険しく高いと思いますが、確率論的にもとにかく数こなさなければいい相手に当たることもないですから

月並みですがたくさん傷ついていい出会いを探しましょう(笑)










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小学校の頃のアダ名は「丸ゴリ」でした。それを知らないハズの奥さんにもことあるごとに「このゴリラ!」とイジられます。今ではゴリラの物憂げな表情に思慮深さと親近感すら覚えます。「あの~、ホラ、ゴリラの人のブログ」で記憶してもらえると幸いです。